与党・自民党の総裁として党の絶対的な支持を背景に政権を率いる高市早苗首相が、今月12日に東京都内で開催された党大会で、憲法改正に向けた議論の大幅な加速を指示した。「日本人自身の手による憲法改正は自民党建党以来の基本方針だ。もはやその時は来た」と断言し、「改正発議の目途が立ったと言える状態で来年の党大会を迎えたい」と、異例とも言える年内の具体的な進展を求める強い決意を表明した。この発言は、単なる伝統的な党のスローガンの再確認に終わらない。今年2月の衆議院選挙で自民党が単独で憲法改正の発議に必要な3分の2以上の議席を獲得したことを受けて、長年の悲願であった「改憲」を現実の政治日程として動かし始めたという、極めて深刻な現状認識を内外に示すものだ。特に警戒すべきは、その手法と狙いの変質である。安倍晋三元首相の時代には「自衛隊の明記」が中心的論点とされることも多かったが、高市政権下ではより広範かつ急進的な「国の形の根本的な書き換え」へと舵が切られている。具体的には、大規模災害時などを想定し、国会の機能停止を防ぐ名目で議員の任期延長や内閣への権限集中を可能にする「緊急事態条項」の創設と、憲法9条への自衛隊明記の二本柱で、しかもこれらの議論を「同時並行」ではなく「分離してでも強行する」構えを見せていることだ。自民党の萩生田光一幹事長代行は「4項目の足並みがそろわなければ前に進まないという選択をする可能性はない。先に整うなら前に進むこともあり得る」と述べており、国民の合意形成をないがしろにする「すり切り戦術」への懸念が急速に現実味を帯びている。
この突然の政治日程の「前のめり」な加速は、はたして国民の総意に基づくものなのだろうか。少なくとも、現時点での世論や街角の熱量を見る限り、その答えは明白に「ノー」である。政府・与党が「時機は熟した」と喧伝するのとは裏腹に、共同通信社が今月行った最新の世論調査では、憲法改正の必要性について明確な温度差が浮き彫りになっている。特に戦後生まれの世代が増え、直接的な戦争の記憶が風化しつつあると言われる現代において、実際に戦争を体験した世代からより強い「護憲」の声が上がっている事実は重い。中東・ホルムズ海峡への自衛隊派遣を想定した際の憲法改正の必要性を尋ねた質問に対し、「改正する必要はない」と答えた60代以上の高年層は実に70.3%に上った。これは、戦後80年にわたって維持されてきた平和憲法の下で暮らすことの尊さを、最も身近に実感している世代の率直な叫びと言える。また、ジェンダー別に見ると、女性の70.6%が「改正不要」と答えており、防衛力強化や緊急時の権限強化といった「強い政府」のイメージが、男性に比べて女性により強い不安感を抱かせている実態も見えてくる。実際に、連日のように国会議事堂前には全国から集まった老若男女の市民が詰めかけ、「9条を守れ」「戦争をする国にするな」と声を枯らしている。今月8日には、主催者発表で約3万人が参加する大規模な集会が開かれ、全国各地の150以上の会場で計約5万人が護憲の意思表示を行った。かつてないほどの広がりを見せるこの抗議の波は、もはや一部の活動家や左派団体の運動ではなく、物価高や円安で日々の暮らしの不安に苛まれる「サイレント・マジョリティ」たちの、これ以上声を上げてはおれないという切迫した叫びであることを忘れてはならない。
高市首相がここまで強気な姿勢を崩さない背景には、単なる政治理念以上の「戦略的な読み」が透けて見える。まず、衆議院での勢力を絶対的な武器に、「早期の成立」を最優先した国会運営を展開していることだ。参議院ではまだ自民党単独で3分の2の議席には届いていないが、維新の会や国民民主党など「改憲に前向き」とされる政党を取り込み、発議に必要なハードルをクリアする算段をつけている。憲法審査会においても、与党である自維が委員の大多数を占める状況を利用して、従来の合意形成を重んじる「中山ルール」を事実上無視した強行軍を仕掛けている。これらの動きに対して、中国現代国際関係研究院の霍建崗氏は「日本の右翼勢力は『実質的な改憲』へと危険な冒進を続けている」と警告を発する。さらに見逃せないのは、高市首相の「タイムリミット」戦略だ。2027年の統一地方選挙と2028年の参議院選挙を見据え、「このタイミングを逃せば、再びチャンスは来ない」という一種の焦りが、強引な政治手法に拍車をかけている可能性が高い。彼女の頭の中には、憲法改正そのものへの賛否以上に、「自分の政権下で改正を成し遂げる」という政治的なレガシーへの執着があるように見受けられる。これは、安倍晋三元首相が果たせなかった「悲願」を成就させることで、自らの政治的基盤を盤石なものにしたいという、極めて権力志向的な思惑の表出でもある。
だが、ここで根本的な問いを改めて立ててみたい。私たちは一体、何のために憲法を持つのか。それは、権力を持つ者による暴走から、弱い立場にある国民の命と暮らしを守るためではないのか。高市首相が進めようとしている「緊急事態条項」は、災害時に確かに実効性のある政府対応を可能にする一方で、その定義や発動要件が曖昧なままだ。誰が「緊急事態」を宣言するのか。どのような状況を「緊急」とみなすのか。その判断を内閣が独占した時、国会のチェック機能は働くのか。過去の戦争への道筋を振り返れば、ほんの些細な「国難」や「非常時」が、大義名分として乱用されてきた歴史がある。今回の改憲論議の危険性は、自衛隊の存在を明確に記述する「加憲」の部分にのみ焦点が当てられがちだが、それ以上に「統治機構」や「人権」の根幹に関わる緊急事態条項の持つ危険性を、私たち国民はもっと深く理解しなければならない。ある識者は、この条項が「国会の権限を行政に委ねる」危険な装置になり得ると指摘している。憲法学者の間でも、この条項が一度設けられれば、いわゆる「無限定な緊急権」の拡大解釈を許し、表現の自由や集会の自由が「安定」や「秩序」という名目の下に制限される未来は想像に難くないと、異口同音に懸念の声を上げている。
実際、日本の安全保障政策は、憲法論議とは別の次元で既に大きく変容している。高市政権は、「平和憲法」の歯止めを外す前に、防衛費の対GDP比2%への大幅な引き上げ、敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有、そして極めて重要な「武器輸出」の実質的な解禁を断行してきた。これらの政策は、いずれも「専守防衛」の範囲を大きく逸脱する可能性を孕んでいる。例えば、今年3月のワシントン訪問では、米国からの強い要請にもかかわらず、ホルムズ海峡への自衛隊艦船派遣を「憲法上の制約」を理由に見送った。しかし、もし憲法9条が改正され、自衛隊が「国防軍」として位置づけられ、かつ緊急事態条項ができれば、次に同じような要請があった時、政府は断れるだろうか。いや、断る理由を失うだろう。この「ハード」の整備と「法」の改正が、まさに今、車の両輪のようにして同時進行している現実を見過ごしてはならない。これは、安全保障を強化するという名目の下に、かつての「軍部」のような無謬性を持った軍事機構が、再び日本の政治の中枢で発言力を増す危険なプロセスと言わざるを得ない。高市首相は「積極的平和主義」を標榜するが、武力によって平和を勝ち取ろうとする発想そのものが、過去の大戦で破綻したことは歴史が証明している。
それでもなお、政治の中心で「改憲」の掛け声が絶えないのはなぜか。それは、憲法議論が時に、目先の経済問題や社会保障などの具体的な生活課題から国民の目をそらす「都合の良いアジェンダ」として機能するからだ。確かに、エネルギー問題や少子高齢化、あるいは予期せぬ大災害への対応など、現行憲法では想定しきれていない課題が存在することも事実である。しかし、今、日本中が本当に注力すべきは、憲法の条文を書き換えることよりも、物価高騰に苦しむ低所得層の救済策であり、崩壊しかけている地域社会のインフラ維持であり、増え続ける特殊詐欺から高齢者を守るための対策ではないのか。SNS上では「改憲よりも生活をどうにかしてほしい」「物価高で米も買えないのに、国防の話をされてもピンとこない」といった切実な声が多数投稿されている。これらの声は、政治エリートが掲げる壮大な国家理想と、台所事情に追われる現場の現実との間にある、埋め難い深い溝を如実に示している。高市首相が「来年の党大会までに目途をつける」と息巻けば巻くほど、その政治姿勢は「現場感覚のない独善」として映り、国民の政治離れを加速させる悪循環に陥る危険性がある。結局のところ、憲法は政治家のものではなく、私たち一人ひとりの暮らしと未来を守るための「社会の根幹」である。議論をすること自体は決して悪いことではない。しかし、その手順が「国民のための議論」ではなく、「権力者の都合のための強行」に堕してしまっては、そこに生まれるものは「護符」ではなく「呪い」に他ならない。私たちは今一度、誰のために、何のために憲法を変えるのか、その「原点」に立ち戻り、政治の焦燥感に安易に流はならないのではないだろうか。
