1949年(昭和24年)7月15日夜、東京都北多摩郡三鷹町(現・三鷹市)の国鉄中央線・三鷹駅で、車庫に留置中だった無人の電車7両編成が突然動き出しました。電車は時速60~70キロで車止めを突破し、駅舎の一部を破壊して駅前の商店街に突っ込み、通行人ら6人が死亡、約20人がけがをしました。誰も乗っていない電車が暴走した以上、何者かが操作したことは明らかでしたが、真犯人は今も確定していません。(日本語版ウィキペディア、朝日新聞、弁護士ドットコムニュース)
1949年7月15日夜、無人の電車が商店街へ
暴走したのは、三鷹電車区の留置線に止まっていたモハ63形電車の7両編成でした。午後9時23分ごろ、無人のまま動き出した電車は加速し、車止めを突き破って脱線・転覆し、駅前の商店に突入しました。6人の男性が車両の下敷きとなって死亡し、約20人が負傷する惨事となりました。電車が勝手に動き出すことはあり得ず、捜査当局は当初から何者かによる人為的な操作とみて捜査を進めました。
時代背景 下山事件の10日後、労使対立のただ中で
事件の背景には、戦後日本の激動がありました。わずか10日前の7月5日には国鉄総裁・下山定則が行方不明となり、翌日、線路上で轢死体となって見つかる下山事件が起きていました。GHQのドッジ・ラインによる人員整理をめぐって国鉄の労使対立は激化し、共産党への警戒感も高まっていました。こうした空気の中で起きた三鷹事件は、発生直後から政治的な事件として扱われ、捜査は国鉄労働組合の関与を疑う方向へ進みました。下山事件、三鷹事件、そして8月17日の松川事件は、後に「国鉄三大ミステリー」と呼ばれるようになります。
捜査と裁判 10人が起訴され、死刑は1人だけに
警察は国鉄労働組合の組合員ら10人を逮捕・起訴しました。内訳は共産党員9人と、非共産党員の運転士・竹内景助でした。竹内は捜査段階で単独犯行を自白したとされますが、裁判では一転して無実を主張し、供述を繰り返し変えたと伝えられています。東京地裁は1950年に竹内へ無期懲役を言い渡しましたが、東京高裁は1951年に死刑判決を下し、1955年に最高裁で死刑が確定しました。一方、共犯者とされた9人は全員が無罪となりました。共犯者が全員無罪なのに、主犯とされた1人だけが死刑――この構図が、事件への疑念を長く残すことになりました。
獄死と再審請求 孫の代まで続く77年
竹内は1956年に自ら再審を請求しましたが、審理が続く中の1967年、45歳で獄死しました。再審請求は本人の死で手続きが終了しました。2011年には長男が第2次再審請求を申し立てましたが棄却され、最高裁は2024年4月に特別抗告を具体的な判断を示さないまま棄却しました。同年9月の第3次請求では、暴走した電車のパンタグラフ(電気を取り込む装置)がどの段階で上がった状態になったのかが主要な争点となり、これまでの再審請求で初めて証人尋問が認められました。しかし長男の死去が判明し、手続きは再び打ち切られました。2026年2月、55歳の孫が第4次再審請求を東京高裁に申し立て、「祖父の無念を晴らすために頑張る」とのコメントを出しました。再審請求人が死亡すると審理が終わる運用が見直され、親族が審理を受け継げるようにする法改正の議論も進んでいます。
理論として語られる見方(いずれも未確認です)
事件の真相をめぐっては、複数の見方が語られてきましたが、いずれも確定した事実ではありません。一つは、労働争議の混乱を狙った組織的な妨害工作だったとする見方です。もう一つは、竹内1人の犯行ではなく、捜査段階の自白に問題があったとする見方で、共犯者全員の無罪判決がその根拠として挙げられます。パンタグラフの状態をめぐる新証拠の主張も、検察側の立場と矛盾すると弁護団は指摘しています。ここに挙げた見方はあくまで未確認の理論であり、真犯人が誰だったのかは公的には決着していません。
なぜ今も語られるのか
三鷹事件が77年たった今も語られるのは、6人の命を奪った惨事の真相が分からないまま、死刑判決を受けた1人だけが獄死し、家族が3代にわたって無罪を求め続けているからです。占領下の政治的な空気の中で進んだ捜査と裁判、その後の再審制度の壁――この事件は、冤罪の可能性と向き合う日本の司法の課題を象徴する事例として残っています。第4次再審請求の行方が、77年の謎に一つの区切りをつけるのか、それとも新たな問いを生むのか、注目されます。
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