東京都内のホテルで4月12日、自由民主党は第93回党大会を開催した。会場には「創立70周年」を記念する大きな垂幕が掲げられ、出席した議員らは緊張感と高揚感が入り混じった表情を浮かべていた。この日の最大の焦点は、高市早苗首相(党総裁)が行った基調演説である。彼女は壇上から、「創立70年、ついに時は来た。日本国民による日本国憲法の改正を成し遂げよう」と力強い言葉を放ち、約1年以内に改憲発議の見通しをつけるという強い決意を表明した。自民党が衆議院選挙で単独過半数を大きく上回る議席を獲得した勢いを背景に、首相は「歴史の新しいページをめくる」という象性的な表現で、平和憲法の象徴である第9条への自衛隊明記を中核とした改憲機運の一気な高揚を図ろうとしている。しかし、その正面突破とも言える戦略に対して、国会周辺やインターネット上では即座に激しい反発の声が上がっている。憲法は「生きた礎」であるべきか、「理想を描く絵図」であるべきか。日本政治はここに来て、根幹的な国のかたちを問う深い闘争に突入したと言える。
高市首相の「時は来た」という認識の背景には、昨年行われた衆院選での圧勝と、その後の国際情勢の変化がある。同首相は演説で、「自衛隊が存在しているにも関わらず、その憲法上の根拠を巡って違憲論が根強く存在することは、隊員の士気や運用の面で大きな制約となっている」と指摘し、「国の存立を守り、国民の命と財産を守り抜くためには、『国力の総て』を強化する必要がある」と述べた。実際、共同通信が行った当選後のアンケート調査では、実に8割を超える国会議員が自衛隊の明記に賛成しているというデータも存在する。また、台湾海峡をめぐる緊張や北朝鮮による相次ぐミサイル発射など、現実的な安全保障環境の厳格化が改憲論議に現実味を帯びさせているのも確かだ。連立を組む日本維新の会の吉村洋文代表も党大会に出席し、「今こそ行動する時だ」と改憲推進で歩調を合わせており、少なくとも発議のハードルである国会の3分の2の賛成に向けた環境は整いつつあるように見える。しかし、ここで一つ、立ち止まって考えてみたい。憲法9条は単に「戦争の放棄」を謳った理想論ではなく、先の大戦での甚大な被害を経験した日本が、「二度と同じ過ちを繰り返さない」という痛切な反省の上に築き上げた「不戦のルール」そのものではないだろうか。
だが、こうした政治の「熱」に対して、街の「温度」は明らかに異なる。首相が「歴史的使命」を訴えれば訴えるほど、国民の間に広がるのは「今、それどころではない」という冷めた現実認識と、憲法改正そのものへの根強い警戒感だ。報道によれば、今月8日には東京の国会議事堂前で約3万人もの市民が集まり、「戦争反対」「改憲反対」のプラカードを掲げて抗議の声を上げた。主催者によれば、この日は全国160以上の場所で同様の抗議行動が展開され、参加者は総計で5万人近くに達したという。SNS上でも、「憲法を変える前に、物価高をなんとかしてほしい」「自民党を支持すると、生活が苦しくなるばかりだ」といった辛辣な意見が多数投稿されている。これらの声は決して「平和ぼけ」しているわけではない。長引く円安と資源高が直撃する実質賃金の低下、増加する社会保障費、そして深刻な少子化——国民の「今」の不安は、10年、20年先の「理想の国のかたち」よりも、来月の家計のやりくりにある。高市首相が「積極的な責任ある財政出動」を謳っているにもかかわらず、具体的な生活対策が後回しにされているとの印象を与えてしまっているのは、政権にとって大きな誤算であり、弱点と言わざるを得ない。
さらに、この改憲論議の根幹には、「緊急事態条項」の創設というより現実的で厄介な問題が横たわっている。自民党が想定する改正案には、大規模災害や外部からの武力攻撃など緊急時に、内閣総理大臣が権限を集中できるようにする条項が含まれており、これについても世論の賛否は割れている。確かに、能登半島地震のような大災害を経験するたびに、迅速な対応のための法整備の必要性は痛感させられる。しかし、この「緊急事態」という概念が、時に民主主義の根幹である「権力の監視」という機能を麻痺させてしまう危険性を、私たちは歴史から知っている。議員の任期延長や権限集中が、いつどのように発動されるのか。その発動基準や事後検証のプロセスが曖昧なままでは、せっかくの「国民のための憲法」が、「権力を守るための憲法」にすり替わってしまうリスクは拭えない。専門家からも、政府が説明責任を果たさずに長距離ミサイルの配備を強行した事例を挙げ、「議論を尽くさない政策推進は危険だ」との声が上がっている。憲法は、権力を縛り、国民を守るための盾であるはずだ。その盾を、時に権力を強化するための槍に作り変えてしまわないか——その繊細なバランスを、私たちはもう少し慎重に熟考する時間を持たなければならない。
このような国内外の複雑な状況を踏まえると、高市首相が掲げる「1年以内の発議」というタイムラインは、極めて挑戦的であると言わざるを得ない。参議院では依然として野党が過半数を占めており、改憲に慎重な層も根強い。仮に仮に発議にこぎつけたとしても、その後の国民投票ではさらに高いハードルが待ち受けている。過去の世論調査で改憲支持が60%を超えた時期もあったが、それは抽象的な「議論そのもの」への賛成であり、具体的な「改憲案」への賛成とは大きく異なる。国民は賢い。食料品の値上がりに苦しみながら、「自衛隊を憲法に書くかどうか」という抽象論に熱狂するほど、現状の政治に余裕があるわけではない。また、万が一、国民投票で否決された場合、それは高市政権への信任失墜だけでなく、日本の政治そのものが大きな停滞を余儀なくされる「負の遺産」となるだろう。大阪や東京の繁華街で通行人に「憲法改正に賛成ですか?」と聞いて回れば、多くの人が「え?何それ?」という顔をするか、「給料上げてから言って」とそっけなく返す光景が容易に想像できる。政治の「理想」と、生活の「現実」の間にある、この埋め難い溝——ここを埋めることこそが、実は「国力の強化」であり、政治の最も地道で難しい仕事なのではないだろうか。
結局のところ、この「改憲」という国家的なプロジェクトは、高市首相という強力なリーダーシップによって一気に加速しているように見えて、実は針穴に糸を通すような繊細さが求められている。自民党大会での高市首相の「私は先頭に立って突き進む」という言葉には、ある種の覚悟とカリスマ性が感じられた。だが、民主主義の主役はあくまで主権者である国民一人ひとりである。憲法を改正するということは、国家の根幹を変えるということであり、それは机上の理論ではなく、私たちの日常生活、商売、そして未来の子供たちの生き方に直結する。野党からは「衆院の議席数を笠に着た横暴だ」との批判も上がっており、与党内からも「謙虚さを欠けば支持は失速する」と危惧する声が出ている。高市首相は、この「国民の理解」という最も不確かで、最も難しいプロセスを、その強い政治手腕でどこまで現実的なものにできるのか。日本が本当に「新しいページ」をめくるべき時なのか、それとも「現状の堅持」こそが賢明な選択なのか。答えを出すのは、国会議事堂の重い扉の内側ではなく、スーパーのレジの前で値段を気にする主婦や、次の給料日を指折り数えるサラリーマン、そして次の選挙で投票所に足を運ぶ、全ての有権者であることを忘れてはならない。歴史の針は、今まさに大きく動き出そうとしている。
