松川事件から77年 列車を脱線させた「925キロのレール」と20人の冤罪、国鉄三大ミステリーの終幕

media generation deepdive 20261028 matsukawa 0 ba18ccd6 eeee 4d4b 8ad3 2c5fe9b2f1c0

1949年(昭和24年)8月17日未明、福島県信夫郡金谷川村(現・福島市松川町金沢)の東北本線松川駅―金谷川駅間で、青森発上野行きの上り412旅客列車が脱線転覆しました。先頭の蒸気機関車が転覆し、荷物車や郵便車、客車も脱線。機関士ら乗務員3人が死亡しました。現場では線路の継ぎ目板が外され、犬釘が多数抜かれ、長さ25メートル、重さ925キロのレール1本が13メートルも移動させられていました。列車を転覆させるための破壊工作であることは明らかでしたが、真犯人は今も特定されていません。(日本語版ウィキペディアほか)

1949年8月17日未明、列車はなぜ脱線したのか

脱線したのは、C51形蒸気機関車が引く上り412旅客列車でした。午前3時9分ごろ(当時は夏時間が導入されており、現在の時刻に直すと午前2時9分ごろに相当します)、カーブの入口で機関車が脱線転覆し、後続の車両も次々と脱線しました。亡くなったのは49歳の機関士と、27歳と23歳の機関助士の3人です。現場検証では、転覆地点付近の線路継ぎ目部のボルトとナットが緩められ、継ぎ目板が外されていることが確認されました。レールを枕木に固定する犬釘も多数抜かれており、重さ925キロのレールがほとんど曲がらないまま移動させられていたことから、複数人による周到な工作だったとみられています。近くの水田からはバールとスパナが1本ずつ見つかりました。

時代背景 下山・三鷹に続く3件目、労使対立のただ中で

松川事件は、単独の事件ではありませんでした。わずか1か月余りの間に、国鉄をめぐる謎の事件が相次いでいたのです。7月5日には国鉄総裁・下山定則が行方不明となり、翌日に線路上で轢死体となって見つかる下山事件が起き、7月15日には三鷹駅で無人の電車が暴走して6人が死亡する三鷹事件が起きていました。GHQのドッジ・ラインによる人員整理をめぐって国鉄の労使対立は激化し、共産党への警戒感も高まっていました。松川事件の翌日、当時の増田甲子七内閣官房長官は記者会見で、今回の事件の思想的傾向は行政整理以来の幾多の事件と同一傾向のものだと述べました。発生直後から、事件は政治的な色合いを帯びて報じられることになります。

捜査と逮捕 20人の労働組合員が起訴されるまで

捜査当局は、当時の大量人員整理に反対した東芝松川工場の労働組合と国鉄労働組合の構成員による共同謀議とみて捜査を進めました。事件から24日後の9月10日、元国鉄線路工の少年が傷害罪で別件逮捕され、松川事件について取り調べを受けると、逮捕から9日目に犯行を自供しました。その自供に基づいて共犯者が芋づる式に検挙され、9月から10月にかけて、国労員と東芝労組員あわせて20人が逮捕・起訴されました。しかし後に明らかになるように、無実を示すアリバイなど重要な証拠が捜査機関によって隠されていました。被告人らを結びつける証拠は、自白以外にほとんどなかったのです。

裁判の転換 「諏訪メモ」とスパナが覆した有罪判決

1950年12月6日の福島地方裁判所による一審判決では、被告人20人全員が有罪となり、うち5人に死刑が言い渡されました。1953年12月22日の仙台高等裁判所による二審判決でも、17人が有罪(うち死刑4人)となり、3人が無罪にとどまりました。ところが裁判が進むにつれ、被告人らの無実を示す材料が明らかになっていきます。決め手となったのは、検察側が隠していた「諏訪メモ」でした。これは労使交渉の出席者の発言に関するメモで、被告人らのアリバイを証明する内容でした。さらに、検察が犯行に使われたと主張した「自在スパナ」では、実際にはボルトを緩められないことも判明しました。1959年8月10日、最高裁判所は二審判決を破棄して仙台高裁に差し戻し、1961年8月8日の差し戻し審で被告人全員に無罪判決が言い渡され、1963年9月12日に最高裁が検察側の再上告を棄却して全員の無罪が確定しました。1970年には国に賠償責任を認める判決も下されています。

作家・広津和郎と世論 「裁判だけは公正に」

裁判の流れを変えた大きな力の一つが、世論でした。作家の広津和郎は当初、松川事件を思想犯罪だと思い込んでいましたが、被告人が出版した小冊子『真実は壁を透かして』を読んで関心を持ち、1952年4月の朝日新聞で「どんなイデオロギーの政治であっても、裁判だけは公正にやってくれるものということが信じられなければ、生きているのが不安でやりきれない」と書きました。広津はその後も『中央公論』などで裁判批判を続け、吉川英治、川端康成、志賀直哉、松本清張ら多くの作家・知識人が支援に加わりました。一審の有罪判決を支持していた新聞報道とは対照的に、裁判の公正さを問う声が広がっていったのです。広津らの批判は、当時の最高裁判所長官らから「文士裁判」「雑音」などと攻撃されましたが、世論の関心は衰えませんでした。

真犯人をめぐる説(いずれも未確認です)

真犯人が誰だったのかは、公的には今も決着していません。ここに挙げる見方は、いずれも未確認の説として扱われています。一つは、労働運動を弾圧するため、GHQや警察が仕組んだ謀略だったとする見方です。事故直前に現場を通過するはずだった貨物列車の運休や、警察があまりにも早く現場に到着した点などが、根拠として挙げられることがあります。初代宮内庁長官・田島道治が昭和天皇との対話を書き残した『拝謁記』には、松川事件について「アメリカがやって共産党の所為にした」という趣旨の天皇の発言が記されているとされ、謀略説を裏付ける史料として注目されましたが、専門家からは、この記述だけでは評価しようがない、慎重に扱うべきだとの指摘もあります。1970年には、中島辰次郎と名乗る人物が雑誌上で真犯人だと告白し、国会でも取り上げられましたが、信憑性を疑う見方も多く、真偽は不明です。1958年には弁護団のもとに「私達は現犯人」と名乗る手紙が届き、7人による犯行を示唆する内容でしたが、これも確証には至っていません。無罪判決確定後、真犯人追及の捜査が継続された形跡はなく、1964年8月17日に公訴時効を迎えました。

なぜ今も語られるのか

松川事件が77年たった今も語られるのは、3人の乗務員が命を落とした惨事の真相が分からないまま、無実の20人が死刑判決を受け、14年にわたる裁判を経てようやく無罪となったからです。下山事件、三鷹事件と並ぶ「国鉄三大ミステリー」の最後の事件として、松川事件は、自白偏重の捜査と証拠隠しがどれほど恐ろしい結果を招くかを示す戦後最大の冤罪事件となりました。福島大学には2010年に松川事件研究所が開設され、関連資料の研究が続けられています。現場近くには殉難碑や「松川の塔」が建てられ、事件の記憶は今も地元に残されています。真犯人は分からないままですが、冤罪を二度と繰り返さないために、この事件が問いかけているものは色あせていません。

▼関連記事: 「国鉄三大ミステリー」の始まりとして「下山事件から77年」(https://jpnewshub.online/archives/4961)、第2の事件「三鷹事件から77年」(https://jpnewshub.online/archives/4968)もご覧ください。

media generation jpnewshub logo 2 0 d1227f30 d2cb 4a3d b4bc 87df1c459dd2

About 編集部

JPNewsHubは、日本の最新ニュース・トレンド・芸能情報を迅速にお届けする編集チームです。読者の皆様に正確でわかりやすい情報を提供することを使命としています。

View all posts by 編集部 →

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です